若き蔵元である加登仙一社長は、酒蔵を引き継いでからわずか5年余りで、自ら立ち上げたブランド「雅楽代」が高く評価されるまで、「天領盃酒蔵」を復活させました。今回は見学を基に、蔵の魅力をご紹介していきます。
- 1. ジェットフォイルで佐渡島へ
- 2. 天領盃酒蔵に到着
- 3. 蔵元の加登仙一さん
- 4. 過去から未来へ発展中の蔵
- 5. 大量生産型の旧醸造設備
- 6. 酒蔵をモデルチェンジする
- 7. 天領盃酒造のルーツ
- 8. 酒造業を取り巻く厳しい経営環境
- 9. 全国最年少蔵元が酒蔵経営に挑む
この第二編では、旧体制の天領盃酒蔵を支えた設備について取り上げます。これらの設備は少人数で大量の酒を仕込むことが可能で、日本の高度経済成長を支えた技術やノウハウが詰まっています。新しい成長ステージへの準備が整ったため、これら旧設備は役目を終えることになりますが、加登さんが目指す酒造りに様々なヒントを与えてきたのではないかと感じます。また、天領盃酒蔵の歴史を振り返りながら、加登さんがどのようにして事業承継に至ったのか、その背景にも触れていきたいと思います。
ジェットフォイルで佐渡島へ
新潟港からジェットフォイルに乗ると、約1時間で佐渡島の両津港に到着します。海上を時速80キロで駆け抜けるこの「海の飛行機」は、揺れが少なく快適で、あっという間に佐渡島へと到着しました。
両津港は「佐渡の玄関口」として知られ、ターミナルにはお土産や特産品を扱うお店が立ち並び、その中にはこれから取材に伺う天領盃酒蔵の直営店もあります。
館内には佐渡おけさが流れ、佐渡島に到着したという実感が湧いてきます。
天領盃酒蔵に到着
両津港から日本百景の一つである加茂湖の湖畔沿いに車を走らせると、すぐに天領盃酒造にたどり着きます。蔵の前には加茂湖の美しい景観が広がり、観光の拠点としても魅力的です。酒蔵の入口には、容量2万リッターを超える巨大タンクがそびえ、広い敷地には建屋が立ち並び、その規模に圧倒されます。
入口すぐの本社棟は綺麗にリノベーションされています。エントランスはショップを兼ねた見学ホールで、他に社長室と事務所があります。本社棟の奥には、地ビール「トキブルワリー」がテナントとして営業中です。また、手前には新たにクラフト酒メーカーが開業予定で、現在工事が進められています。
蔵元の加登仙一さん
蔵元の加登仙一さんは、31歳という若さでこの蔵の経営を担っています。前職は外資系証券会社勤務で、全く異なる分野から酒造業界に転身しました。
学生時代、留学先での経験をきっかけに酒造りに興味を持ち、日本酒について学び始めたとのこと。その後、消費の低迷や若者の日本酒離れといった課題に気づき、「自分で酒を造り、日本酒の魅力をもっと広めたい」という思いを強め、気づけば自ら酒蔵を経営することになっていたそうです。
過去から未来へ発展中の蔵
早速、蔵の中を見学させてもらいました。エントランスから奥へ進むと、旧体制の設備と真新しい設備が混在しており、日々の奮闘を垣間見ることができました。旧設備はほとんど使われておらず、新しい設備は投資によって導入されたもので、まさに過去から未来へ発展中の蔵なのだと実感します。
最初に訪れたのはラベルを貼って製品を仕上げる作業場です。時を経た広い倉庫は整然としていますがあまり手を加えられておらず、山積みされた新品のPパレットがとても新鮮に映ります。
さらに敷地を奥に進むと、精米棟と瓶詰め棟があります。精米棟には立派な縦型精米機が設置されていますが、事業承継後最初の2年間は使っていたものの、現在は最新鋭の搗精(とうせい)工場に外部委託しているため、この精米機は使われていません。
外部委託の第一のメリットは、水が濁りにくく使いやすい米になることです。さらに、米の成分分析も行ってもらえるため、その結果をもとに、稲作農家と協力して酒米の品質向上を図れる点も大きな利点です。
瓶詰め棟には自動化された立派な製造ラインが整っており、洗瓶から火入れ、瓶詰め、函詰めまでを一貫して行えます。しかし現在、この設備は甘酒など一部の製造にしか使っていません。
そもそも天領盃酒蔵の旧設備は、2人で一度に6,000キロを仕込める大量生産型のもので、その年間製造能力は5,000石と大きく、現在の10倍以上の規模を誇っていました。加登さんは、これらの設備を一つずつ整理し、自らが目指す酒造りのために刷新を進めています。
「ここはほとんど使っていません」という言葉の裏には、未練なく旧設備を見限り、未来を見据えた投資を進める強い意志があるのです。
大量生産型の旧醸造設備
3階建ての醸造蔵の2階3階部分は今後使用しない予定で、3階まで水を上げてから降ろしていく井戸水の配管も、1階をメインに使う形に変更するようです。
3階には酛場、洗米機、浸漬装置があり、2階には縦型自動蒸米機、放冷機などが並ぶ製造ラインがあります。また、大型の自動製麹機があるものの、昨年までは甘酒用にしか使っておらず、今後使わなくなるとのことです。
その背景にあるのは、新たに立ち上げた麹室の存在です。この麹室によって酒質が格段に安定し、加登さんは自らの製麹技術に自信を深めているようです。
2階には他に仕込み室もあり、容量24,000リッターの仕込みタンクの投入口が並んでいますが、すでに使用されていません。ただ、このタンクには機能的に優れた部分があり、新たに導入した仕込みタンクは、その特徴を参考にしたオリジナルタンクを採用しています。
1階の貯蔵庫にはリーファーコンテナが数台置かれ、貯蔵用冷蔵庫として活躍していますが、将来的には新たに導入した低温倉庫と規格を統一する考えです。
酒蔵をモデルチェンジする
2020年頃までは、残された設備を使いながら手探りで酒造りに取り組んでいた加登さん。設備のコントロールパネルや壁に所かまわず書き留められたメモが、その奮闘ぶりを物語っています。そんな日々の中で自らの酒造りのスタイルを模索し続け、ついに理想的な設備が整ったのです。
省力化された大量生産型の酒蔵から、手作業を伴う繊細な造りができる酒蔵へとモデルチェンジするプロセスは一筋縄ではいかなかったでしょう。設備だけでなく、人の問題もあったでしょう。計り知れないエネルギーが注ぎ込まれたことを考えると、加登さんの信念と熱意の強さに深く敬意を抱かずにはいられません。
天領盃酒造のルーツ
なぜこれほどまで合理化された蔵が経営破綻し、加登さんが買い取ることになったのでしょうか。日本酒市場の中で天領盃酒造が揺れ動いてきた歴史に沿ってご説明します。
昭和末期、日本酒業界では経営悪化した小規模な蔵が多く存在していました。その対策として、複数の蔵を合併し、大量生産型の蔵を造る政策が進められ、その第一号が天領盃酒蔵の前身である佐渡銘醸株式会社だったのです。これは約40年前の出来事です。
1983年、3つの蔵の合併によって佐渡銘醸株式会社が誕生し、行政の補助金を活用して普通酒を大量に仕込める鉄筋コンクリート製の酒蔵が建設されました。そしてその酒蔵や設備はまさに今回ご紹介したものなのです。
酒造業を取り巻く厳しい経営環境
それと同じ頃、1982年には上越新幹線が開通し、淡麗辛口の新潟酒が人気を集めたことで、静かな地酒ブームが始まりました。このブームは業界にとって短期的には追い風でしたが、消費者が自らの嗜好に合った日本酒を求めるようになった結果、普通酒を大量生産する酒蔵にとっては逆風となってしまったのです。
日本酒の消費量は1973年をピークに減少の一途をたどり、焼酎ブームの影響で市場環境はますます厳しくなっていきました。経営努力も実らず、2008年に佐渡銘醸株式会社は会社更生法の適用を受け、その結果、天領盃酒造が創業されました。
しかし、経営の抜本的な改善は難しく赤字が続き、2018年に加登さんがM&Aによって事業を承継し、酒蔵を引き継ぐこととなったのです。
全国最年少蔵元が酒蔵経営に挑む
経営譲渡を検討していた加登さんは、「財務改善が見込める」「鉄筋コンクリートの建物」「ブランドの再構築ができる」といった条件に合う酒蔵を探していましたが、なかなか希望に合うところが見つからず、行き詰まっていました。
そんな折、天領盃酒蔵の話が舞い込んできました。そして驚いたことに、その内容は加登さんの求める条件にすべて合致していたのです。
当時、天領盃酒造の従業員の平均年齢は60歳を超え、残された設備の多くは佐渡銘醸時代のものでした。建物の壁には破損して穴が開いた部分もあります。
当時の加登さんは24歳で、全国最年少の蔵元となりました。若き蔵元がその経営手腕を発揮する時がついに訪れたのです。次編では、新たに整えられた醸造設備を中心に、未来に向かっていく姿を紹介します。